「紺青」2002 Vol. 21 (2001年会報) に寄稿
いわゆる「体育会」的なもの
たまにではあるが、悪いものを食べて寝た晩など、紐の夢を見ることがある。何か差し迫った状況の中、必死でなにかの紐を結ぼうとするのだが、うまく行かない。状況はどんどん悪化して行く。だれかに大声でせきたてられているのだが、どうしても「舫結び」のやり方が思い出せない。「わあ、どうしよう」というところで目が覚める。ヨット部でクルーをしていたときスキッパーから怒られた経験が、いまだにトラウマとして残っているのだ。
ことほどさように、僕はできの悪いクルーであった。もともと体育会ヨット部に入部したのもスポーツが苦手であるくせにスポーツ選手にあこがれていたため。普通の運動部だったら中学高校からの経験者がうなるほどいるだろうが、ヨットなぞやっている高校生は少ないから同じスタートラインで勝負できる。ひょっとしたら自分もいいところまでいけるかも知れないという期待があったから。でも入部早々、その期待が甘かったことをさんざんに思い知らされることとなった。
それでもなんとか四回生までヨット部を続け、最後は全日本にも出ることが出来たのは、かなりラッキーだった。郷にいれば郷に従え、朱に交われば赤くなる。上級生になると入部したときの苦労は何とやら、スナイプの上で怒鳴り散らすスキッパーとなっていた。クルーの丸山清喜君には今でも悪いことをしたと思っている。でも当時はそうでなければ勝てないと思っていた。
卒業して社会人になっても、しばらくはディンギーのクラブ・レースなぞに出たが、問題はクルー。なり手がなかった。家内をうまく言いくるめて一緒に乗って貰うのだが、続かない。あんたはあまりに serious だという。レースとなれば遊びじゃないのだから真剣にやらねばならないと説明しても、日本人はテンションが強すぎてヨットには向いてないと暴言を吐く。家内はフランス人でブルターニュの海で小さいときからディンギーに乗っていた。ご存じのようにあの辺のディンギー乗りは凄い。でも云っている意味がよくわからなかった。
ようやく家内の云っていることがわかったのは、ベネズエラに駐在したとき。ビーチ・クラブでスナイプに乗ることになって、あるとき知り合ったフランス人の若者にちょっとスナイプを貸してやったが、彼の乗り方にまさに驚倒した。家内と二人で出ていったのだが、しばらくすると家内を下に座らせて自分でバランスをとり、完全にティラーを放して、セールのトリムとバランスだけで自由自在にスナイプを操りだしたのである。あれはとてもまねが出来ない。後で家内に聞くと、かれは完全にリラックスしていて、冗談いいながらの楽しいセーリングだった由。あんたとえらい違いだったと笑われた。
日本のセーリングの歴史も結構長くなった。アメリカズカップにも何度も出場できるぐらい資金的にも余裕が出てきている。でもセーリングの技術水準はまだまだ低いと認めざるをえない。特にうまいスキッパーの数が少なく、底辺が育っていないように思う。どうも選手育成の段階における、硬直的な上下関係に基づく練習風土、いわゆる「体育会」的風土がそれを阻んでいるように思う。どのスポーツでもそうだが、歯を食いしばってただただ努力するやりかたでは、ある一定のレベルには到達してもそれ以上は難しい。特にヨットのような個人競技の色彩が強く、遊びのファクターが大きいスポーツでは、自由に楽しみながら技を極めるという姿勢が大切ではないか。
「何を今更、今はもうそういうやり方で練習しているよ」というなら、これほど嬉しいことはない。
橋本尚幸(S43卒、スナイプ)
この3月末で、33年間にわたる会社生活を終え、少し早いが引退生活に入ることとなった。5年間書き続けたこのコラムも、これが最後となる。これを機会に、価値観という観点から日本の問題を考えてみたい。
会社生活をはじめた頃は、高度成長期のさなかだった。当時の日本は、まだまだ貧しく、世をあげて経済成長が指向されていた。三分の一世紀が経って、日本の一人あたりGDPはすでに米国の水準に肩を並べ、数字の上では豊かな国となった。しかし国民は豊かさを実感できず、逆に国全体に、伝染病のように重苦しい閉塞感が広がっている。
そもそも物質的な富の増大とは、国民幸福の実現のための手段であったはずだが、その手段がいつの間にか目的と化してしまい、実現される名目上の富を真の豊かさに転化する戦略が、国家レベルにおいても個人レベルにおいても、忘れ去られていたように思える。
この10年進められてきた構造改革にしても、本来は国民の豊かさを実現する手段であったはずだが、構造改革を進めた90年代に国民は1200兆円の資産を失うことになる。日本の年間自殺者数は3万人を越え(1999年)、そのうち30%(9000人)は、経済的理由によるものと云われる。ベトナム戦争の時でさえ、米軍の戦死者は年間平均で5000人程度であった。国民の豊かさを求めて皆がこぞって進めてきた改革が、皮肉にも国民の生命財産に多大の犠牲を強いている。ここにも目的と手段の関係に歪みが見える。
その結果、社会の価値観に揺らぎが生じはじめている。「みんな一緒に、仲良く、一生懸命」という古い共同体の価値観は徐々に力を失い、そうかといって、それに替わる新しい価値観は、まだ社会に定着していない。集団の迷走を押しとどめ、社会にバランスをもたらすのは、結局、意見を持つ個人の存在でしかない以上、一刻も早く健全な個人主義が、日本社会に根付かなければならない。
しかし残念なことに、日本には「個」が育ってこなかった。日本文化に「個」がなかったわけではないが、西欧文明における「個」とは、社会を構成する最小限の核として積極的な意味合いを持つのに対し、日本文化における「個」は、西行、山頭火などのように、社会に背を向けた漂泊の詩人というポーズを取ることが多い。特に人が共同体のありように幻滅を感じたときに、日本人はこの消極的な「個」に逃避する傾向がある。
「個」の在り方を考える上で参考となる例として、ロスタンの戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』を引用したい。最後まで権威に迎合することなく、貧窮の中で最期を迎えたシラノは、(自分の地位財産は奪えても、決して自分から奪えないものがある。それは)「私の羽根飾(こころいき)だ」と叫ぶ(辰野隆、鈴木信太郎訳)。羽根飾とは彼の尊厳の象徴だった。個人主義の国フランスでは、シラノが今なお最も好まれる人物像となっている。結局、「個」が生きる社会とは、他から与えられるものではなく、各人が自分の尊厳(ディグニティー)を守る努力をすることで実現するものだと思う。
小生も最後に「私の羽根飾(こころいき)」と云って筆をおくこととする。さようなら。
(橋本尚幸)
今年のNHK 大河ドラマ「北条時宗」は、なかなか快調な滑り出しだ。秩序を重んじ公儀に生きるという、伝統的な侍のイメージとは大きく異なる、どぎついまでに個性的で荒々しい武士がたくさん登場するのが面白い。舞台の鎌倉時代は、いろいろな意味で日本の源流を形づくった時代だが、我々の祖先はもともとこういう人たちであったのだと思うと、なにやら元気が出てくる。
経済史的にみると、鎌倉幕府とは地方地主の権利を朝廷に認めさせた一種の共和政権といえる。幕府の成立はイギリスのマグナ・カルタの調印よりも古く、世界史的にも誇りうるものだ。
一方で、鎌倉時代にも汚点がある。弘安の役で困窮した御家人集団を救うため実施された、すべての借金を棒引きにするという「徳政令」のことである。債務者にとっては、債務の免除は確かに「徳政」かもしれないが、債権者にとっては資産の召し上げであり「悪政」となる。だから「徳政令」とは、「公的権力による、特定の集団からの富の収奪と、別の集団への富の再分配」と定義したほうがよい。
たいていの場合、徳政令の受益者の声の方が大きいので政治的に人気を得やすい。よって鎌倉時代以降、歴代政府は、いろいろ形を変えながらこれを繰り返して来た。
記憶に新しいものは、太平洋戦争後の新円切り替えだが、政府は預金封鎖とインフレで債権者(預金者)の資産を奪い、債務者(政府)の借金を棒引きにした。戦後の「ばらまき行政」にしても、納税者から特定既得権集団への富の再分配であり一種の徳政令だ。魅力のある鎌倉時代ではあるが、以後につながる「徳政令」の前例を作ったのだけは感心しない。
今、積み上がる巨額の財政赤字を抱え、政治家や官僚がこの伝統の「徳政令」の誘惑に駆られるとしても驚くことではない。平成の世に、徳政令をどういう形で具現化させうるかというと、まずはインフレという形での借金の棒引き。すべての国民の資産の実質価値を低下させることで債務者(政府)の借金を棒引きにできる。また資産課税や相続税の徴税強化もある。政府の債務は700 兆円。それに対し日本の個人金融資産は1300 兆円。人はいつかは死ぬので、気長に待ってこれを相続税で召し上げればよいとの安易な発想。だから財政再建になかなか本腰が入らない。
でも、こうした徳政令は、過去には成功したかも知れないが、平成の世には決して成功しないだろう。内外物価の平準化で当分はデフレが続くので、インフレ誘導はやろうとしても難しい。平均寿命はどんどん延びるので、相続税収も期待できない。一番大きな理由は、昔の日本経済は閉鎖経済であったが、今はグローバル経済の時代だということだ。国民と政府の関係は、伝統的な運命共同体的な関係から、間に距離を置いた利害関係に変化しつつある。国民の政府に対する信頼感がいったん低下するや否やキャピタルフライトが始まる。これは諸外国で経験済みのことである。
資本市場のセンチメントがなかなか好転しないのは、納税者から富を集め既得権集団にそれを再配分するという、昔ながらの政治の「徳政令」的体質に、市場が不安を感じているからだと思う。
(橋本尚幸)
2000 年後半の日本の株価下落はきびしかった。なかでもハイテク株の急落はきつく、時代を先取りするつもりでIT 関連の株を多く組み込んだ成長株投信を買っていた人たちは、苦い思いで年末を迎えたのではないだろうか。こんな方にぜひ読んで貰いたい本がある。バートン・マルキールの『ウォール街のランダム・ウォーカー』という本だ。
「株式投資の不滅の真理」との副題がついたこの本はアメリカですでに150 万部近く売れている。結論は全ての戦略的な投資信託は疑ってかかれと云うもの。著者は、何千本と販売されている投資信託(バリュー型、ファンダメンタルズ型、成長型、テクニカル型などなど)の過去のパフォーマンスを徹底的に検証し、ほとんどの戦略的な投資信託は単純に機械的に投資を分散するS &P インデックス連動型投信よりもパフォーマンスが悪いことを立証したのだ。株価の動きは結局誰にも解るものではないので、いわゆる「戦略ファンド」はファンドマネージャーに支払う馬鹿高い報酬分だけ確実にパフォーマンスが悪くなると云う、まことに理屈にあった理論だ。
当然投信の運用で飯を食っているファンドマネージャーには大変評判が悪いが、個人投資家には大人気でミリオンセラーとなっている。
さてこの理論の企業経営へのインプリケーションを考えてみたい。このマルキールの教えを早くから実践している企業が存在するのだ。それこそ世界に冠たる日本の総合商社だ。
扱い品目は二万点を越えると云われ、産業の隅々にまでその活動範囲を広げており総合商社の業容は日本経済の縮図とも云われる。実際に総合商社の粗利益はGDP などのマクロ指標と驚くほどの相関性がある。まさにビジネス版のインデックス投信だ。総合商社はその幅の広さ故に抜群の不況対応力を持ち、数々の「冬の時代」を乗り越え生き残ってきた。このことは総合商社の今後の課題を考える上できわめて示唆的である。二つのことが言えよう。
まず第一に、総合商社にとって「総合性」こそがコアコンピタンスであるということ。「戦略分野」なるものを特定し突っ込むのもよいが、むしろ経済全体の構造変化に的確にフォローし資源配分を継続的に変化させ続ける事が重要となる。総合性を失った総合商社は「ただの会社」だ。
二つ目に言えることは、社内コストの低減が重要課題であるということだ。インデックス型投信が競争力があるのは運用コストが圧倒的に安いからである。前述のように商社の粗利益はマクロ指標で規定される以上、いかにコストを削減し生産性を上げるかで純利益に差が出る。はやりのIT をいかにコスト削減に結びつけうるかが勝負の分かれ目となる。
蛇足ながら、マルキール理論は国民経済についても適用可能だろう。最近、政治家や官僚が今後の成長分野はこれだと変な指導力を発揮しているのをみるとある種の危うさを感じる。コルベール以来、上からの産業政策が成功した例は少ない。何もしない小さな政府は、変なリーダーシップを発揮する大きな政府に勝る。
(橋本尚幸)